下野ぬ 安蘇の河原よ 万葉集

皆様こんにちは
蓬田でございます!
今日も佐野にちなむ和歌を、ご一緒に鑑賞して参りましょう!
今日の和歌はこちらです。
下野(しもつけ)ぬ
安蘇(あそ)の河原(かはら)よ
石(いし)踏(ふ)まず
空(そら)ゆと来(き)ぬよ
汝(あ)が心(こころ)告(の)れ
万葉集
万葉集は、すべて漢字(当て字)で書かれています。
上の和歌にある漢字とかなは、あとの時代の人たちが、読みやすいように書き分けたものです。
いろいろな書き方が混在していますけれど、いまは大体上のような書き方になっていると思います。
歌の意味は、以下のような感じです。
下野の安蘇の河原から
石も踏まずに空を飛んでやってきたよ
君の気持ちを言ってくれ
歌の意味はこの通りなのですけれど、個人的には、違和感というか疑問点がある歌です。
今回は、疑問点についても少し解説してみたいと思います。
その前に、古い和歌なので、分かりにくい言葉があります。
分かりにくい言葉を先に確認しましょう!
「下野(しもつけ)ぬ」の「ぬ」は、「の」の東国なまりではないかと考えられています。
「河原よ」の「よ」は、「~から」という意味と。もうひとつ「~を通って」というふたつの意味があります。
なので、この歌では「河原から」と「河原を通って」という、どちらかの意味になります。
「空ゆ」の「ゆ」も、上の「よ」と同じで、「~から」「~を通って」という意味です。
歌の情景としては、若者が慕っている女性に会いに行くところですね。
早く会いたい一心で、河原の石も踏まずに空を飛んで会いに来たんだよ!
早くお前の本心を言ってくれ!
という恋心を伝える歌です。
おおらかな恋愛の歌で、こちらも幸せな気持ちになります。
川を渡った?! 河原は道路だった?!
皆さんはわたくしが上に書いた現代語訳を読んで、どう感じたでしょうか?
違和感はもたなかったでしょうか?
わたくしはこの歌を初めて知ったとき、多分10代の頃ですが、下野に住んでいる男性が、川の向こうに住んでいる女性のもとへ、空を飛ぶようにして会いに行ったと解釈していました。
そういうふうに解釈した方、多いと思います。
普通そういうふうに解釈しますよね。
でも改めて考えると、ちょっとおかしいというか、違和感というか、そういうのを感じました。
もし、川の向こう側に行ったのなら、「石を踏まず」ではなくて、「川を越えて」とか、石よりも水のほうを強調するんじゃないかなと、個人的には思います。
それと、「(きょうは)川原の石を踏まずに空を飛んで来た」のですから、普段は「川原の石を踏みながら」女性のところへ行っていたことになります。
そうすると、川原は道路の役目をしていたと考えられます。
つまり、男性は川を渡った(越えた)のではなくて、川原を上流か下流に移動したことになります。
詠んだ男性は下野の人ではない?!
それともうひとつ、歌の冒頭に「下野ぬ」とあります。
地元の人が歌を詠んだとしたら、自分の行為にわざわざ「下野の」という修飾語を付けるでしょうか?
東京に住んでいる人が、「きょうは東京の銀座に行った」と言うのか?
という問題です。
それは言わないです。
東京以外に住んでいる人が銀座に行ったとき、帰ってきてから「きょうは東京の銀座に行ってきたよ」と言ったりするのは自然ですよね。
それと同じです。
もし、下野の男性がわざわざ「下野の」という言葉を付けたとしたら、かなり文学的な表現を意識している場合でしょうか?
でも、この歌を詠んだのは、東国に住んで、おそらくは農業を仕事としている普通の若者です。
そこで考えられるのは、ふたつの説です。
ひとつは、男性は下野以外の場所から下野の女に会いに来たこと。
男性は下野の人ではないという考え方ですね。
もうひとつは、男が空を飛んで女に会いに行ったというエピソードを聞いた人がこの歌を作ったという考え方。
わたくしは、印象としては、後者のような気がします。
下野に派遣されいた役人がエピソードを聞いて、三十一文字の和歌に仕上げたのではないか、というのがわたくしの説です。
この和歌だけでなく、万葉集に掲載されている東国の歌について、東国に住む普通の若者が、三十一文字の和歌を詠めたかどうか、わたくしは疑問に思っております。
和歌を作れる役人が、エピソードを聞いて、三十一文字の和歌の体裁に整えて、万葉集に載せられるようにしたのではないか、ということです。
ただ、役人が作ったという説を取ると、女に会いに来た男は下野の人なのか、下野以外から来たのかが判断できなくなります。
これは、問題といえば問題。
その一方で、男はどこから来たのかを明らかにするのも大事だけど、和歌に書かれているエピソードや世界観を味わうのを楽しむ、という考え方もあると思います。
いかがでしたでしょうか?
万葉の和歌には、いろいろと分からないことが多く、解釈が揺れています。
学者の方が発表した考えにとらわれず、自分なりに調べていって、自分なりに解釈するのは楽しいことだと思います。
皆さまも自分なりに解釈して、和歌の世界を楽しんでいかれたらいかがでしょうか?!
和歌の精神は、古くから続いています。
和歌を通して、いまに生きるわたしたちが、かつての日本人の気持ちに近づくことは、とても贅沢な行いだと思っております。
今日の一首が、皆様の心に感じるところがありましたら幸いです!