十二天塚古墳

2025年10月8日調査

十二天塚(じゅうにてんづか)古墳。こんな素晴らしい古墳が家の近くにあるとは驚きだ。

古墳の前には、佐野市教育委員会による説明板が立っている。説明板にはこう書いてある。

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佐野市内には、すでに失われたものも含めて約250基の古墳があったと考えられます。古墳は、今から千数百年前に地域を治めていた支配者や一族のお墓で、その規模は、権力の大きさをある程度反映してい
ます。古墳は、台地などの安定した場所にその多くが造られますが、旗川流域は特に多く、市内で確認された数の約70%を占めています。

十二天塚古墳が位置する蓮沼古墳群は、これまでに16基の古墳が確認されています。蓮沼地域にみられる多くの古墳は、いずれも直径15~20m·高さ2~3mほどの規模で、古墳時代後期から終末期にかけての群集墳と呼ばれるものです。時代は、6世紀中頃から7世紀前半にかけての築造と考えられ、佐野の古代史を知る上で重要な地域です。十二天塚古墳は、蓮沼古墳群の中でもひときわ大きく、直径45m·高さ6.3mを測り地域の盟主的存在といえ、赤見地区では最大の円墳です。

昭和61年、市道1059号線改良工事に先立ち、古墳の北方区域(道路幅)が佐野市教育委員会によって発掘調査されました。調査によって多くのことが明らかになりましたが、中でも、北側の道路部から十二天塚古墳に廻らされた堀跡の一部が発見されたことは、大きな成果といえます。さらに、発見された堀跡の一部は、墳丘へ向かって掘り残されていました。調査区の関係で、通路状の掘り残し部は、墳丘につながっていたかどうか明らかにできませんでしたが、古墳の構造を考える上で貴重な検出例といえます。また、出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)から、この古墳は、6世紀中頃(西暦500年代中頃)に造られたことがわかりました。

十二天塚古墳は、墳丘の大きさは直径45mですが、周囲の堀跡を含めた範囲は直径90m以上に及ぶ大規模なものであったと推測されます。地域の支配者が葬られた部屋が石室ですが、十二天塚古墳には、入口を南方に向けて横穴式石室が良好な形で残っています。石材には、付近で産出される石灰岩が多用されており、地域的特徴がうかがえます。石室の中心部(玄室)は、平面形が概ね正方形を呈し、長さ2.43m·中央幅2.45m·奥壁高1.44mの大きさです。十二天塚古墳は、佐野市域の古墳時代後期を代表する古墳の一つであり、蓮沼の氏神様が祀られる地域のシンボルでもあります。

(原稿作成:佐野市教育委員会)

古墳南側には鳥居が立つ。古墳上に蓮沼神社がある。

石室の内部を見た。

大東亜戦争時、空襲のときは、この古墳に防空壕をつくり避難していたとの情報を得た。

恐らく、この石室に避難していたのではないか。

見どころが多く、大変に貴重な古墳遺跡である。

古墳の頭頂部には、十二天が祀られている。

建立は嘉永元年(1848年)だ。江戸時代も残すところ20年ほどの時期だ。

古墳に上り、東のほうを望む。

遠くに見えている山は三毳山だ。

いまから1400年前の人のこの風景を見たのだ。そう考えると、時空を一気に駆け上る思いがする。