歴史小説「いざ鎌倉 -佐野源左衛門常世の一夜-」 作:蓬田修一

 雪が舞っていた。

 下野国佐野荘。冬枯れの山並みを背景に、薄氷の張った田畑は、すでに日暮れの色を帯びていた。小さな庵のような一軒家の中に、ひとりの男が、火もない囲炉裏の前に胡坐をかいていた。名は佐野源左衛門常世。かつては鎌倉の御家人としていくばくかの地を領していたが、今では所領を奪われ、名ばかりの武士である。

 「……今に見ておれよ。いざとなれば、我が老躯をもって駆けつけようぞ」

 薪代わりの小枝をくべながら、常世は独りごちた。

 そのとき、戸を叩く音がした。

 「どなたか……この雪の中、宿を乞う旅の僧です」

 常世は立ち上がると、戸を開けた。凍てついた風の中に、一人の旅僧が立っていた。みすぼらしい身なりに、雪が積もっている。

 「こんな辺鄙な地によくぞ……さあ、どうぞ中へ。何もござらぬが、せめて暖をとってくだされ」

 その夜、常世は栗飯を炊いた。干し椎茸をあしらった素朴な一椀だったが、心を込めて差し出した。

 「このようなご馳走を……ありがたく頂戴します」

 旅僧は静かに頭を下げ、箸をとった。

 やがて、囲炉裏の火が弱まり始めた。常世はしばし躊躇し、そして何かを決意したかのように納屋へと向かった。

 戻ってきた常世は、三つの鉢を抱えていた。梅、松、桜。いずれも、先祖伝来の名木の盆栽である。

 「……この木々は、亡き父の形見。しかしながら、今宵は客人をもてなすことが、武士としての本懐。火にくべて、しばし暖を」

 旅僧の目が見開かれた。やがてうなずき、共に火を見つめた。

 「ご身分は……?」

 「昔は、鎌倉の御家人。だが、今は見る影もない。ただ、鎌倉に何かあれば――“いざ鎌倉”の心で、真っ先に駆けつけようと心に決めております」

 旅僧はしばし黙し、やがて微笑んだ。

 「立派なお覚悟……。世は広しといえども、まことの武士は、かくも稀なものか」

◎  ◎

 それから数日後、佐野荘に風の噂が届いた。

 ――鎌倉から召集の命が下った。

 兵を募り、諸国の御家人に武装して参上せよという。世の乱れが激しさを増し、幕府がその威を見せんとする徴だった。

 常世は馬を曳いた。痩せた老馬。鞍も擦り切れていた。しかし、顔には曇りなき決意があった。

 「いざ、鎌倉――」

 その声に呼応するように、老馬が嘶いた。

 凍てついた街道を、男は駆けた。雪の名残のある道を、ただひたすらに。たとえ誰に忘れられようとも、武士の本懐を貫くために。

◎  ◎

 そして、鎌倉。

 常世は、満身の疲労をものともせず、御所の前に立っていた。そこには、かの旅僧――いや、執権・北条時頼が、座していた。

 「――よく参られた」

 常世はひざまずいた。その顔に驚きはなかった。ただ、誇りだけが宿っていた。

 時頼は静かに言った。

 「下野国佐野荘の常世。あの夜の言葉、あの鉢木、あの栗飯、我忘れず。汝の忠義、まことに天に通ず」

 それから、時頼は宣した。

 「ここに、汝の旧領を返す。そして、あの夜、火にくべしとした三鉢の名にちなみ、加賀国梅田荘、越中国桜井荘、上野国松井田荘を与えるものとする」

 周囲がざわめいた。常世はただ、深々と頭を下げた。

 その日、名もなき貧士が、再び武士としての名を得た。

 だが、彼にとっての真の誉れは――

 あの吹雪の夜、「いざ鎌倉」と心に誓った、その覚悟にこそ、あったのだった。

◎  ◎

佐野源左衛門常世。彼が実在の人物かどうかは定かではない。しかし、その「いざ鎌倉」の気概は、日本人の心に脈々と息づいている。

そして今日も、彼の墓と伝えられる佐野の地では、静かに雪が舞っている――。

(令和7年6月30日)