清水城

令和6年6月26日

自宅を車で出て、葛生街道と呼ばれる道を北上する。

昭和の時代は、葛生、田沼、佐野から東京方面へ向かう幹線道路だった。

いまは時間帯によっては、数分間道路に立っていても、車が1台も通らないことがある。

走っていくと、産業道路と地元住民は呼ぶ大きな道路にぶつかる。

そこを左折すると、すぐに秋山川をまたぐ橋を渡る。

渡り終えると、跨線橋を上る。下を走っているのは東武佐野線である。

跨線橋を下ったらすぐに右折する。

落ち着いた古い住宅のあいだをしばらく走ると、興聖寺に着いた。ここが清水城本丸跡である。

(説明文)

佐野市指定史跡

吉水町739

興聖寺(こうしょうじ)

清水城跡(しみじょうあと)

昭和49年3月1日指定

『栃木県誌』などによれば、安貞2年(1228)、佐野国綱が岩崎義基のために築いたとある。後、子孫が代々居住したが、永正年間(1504~1521)、義基12代の孫、左馬介重長が岩崎城へ移り、 大永元年(1521)、佐野秀綱の居城となる。

慶長19年(1614)、佐野氏改易とともに廃城となる。

寛永12年(1635)、興聖寺が田之入(田之入町)からこの地に移され、現在に至っている。

城跡の規模は、東西116m、南北133mのほぼ方形である、四方に土塁と、その外側に堀の遺構が残る。

古絵図によると、大規模な城の本丸がこの城跡に当たる。この城域は本丸・北二の丸・南二の丸、三の丸からなり、それぞれ曲輪が水堀で囲まれていた、さらに周辺には侍屋敷があって、 有力な家臣が配置されていた。

古文書『佐野領御館野林清水御城内』で、この城を「清水御城」「清水ノ城」「吉水の城」と記されていることから、名称を「清水城跡」とした。

『栃木県市町村史(昭和30年刊)』以後の『城郭大系(村田修三編)』『栃木県城館跡(昭和58年刊県文化事業団編)』等では、城名を 「興聖寺城」とも紹介している。

平成18年1月 佐野市教育委員会

今は興聖寺となっている。

興聖寺(しょうこうじ)に着くと、寺の前が空き地になっていて、そこにクルマを停めた。

寺の門に歩いていく。

6月だが真夏を思わせる陽気だ。

何かのモーターが鳴る音が聞こえた。

山門のあたりで、中年の男性が、あたりの庭木を剪定していたらしく、地面に落ちた葉や小枝をブロワーで一所に集めていた。

モーターの音はブロワーであった。

山門を入り、境内を進む。

誰もいない。

結局、この日、寺で見かけた人は、山門近くで作業していた男性だけだった。